ヨハネ7章

7:1 その後、イエスはガリラヤを巡り続けられた。ユダヤ人たちがイエスを殺そうとしていたので、ユダヤを巡ろうとはされなかったからである。

 イエス様がガリラヤを巡っておられ、ユダヤを巡りたいと思われなかったのは、ユダヤ人たちがイエス様を殺そうとしていたからです。殺そうとすることは、その人を拒む究極のものです。無視したり、反対意見を言うのとは違います。その人の存在自体を否定しようとするのです。完全に拒むことであるのです。

 イエス様は、そのような人々の所を巡ろうとはされませんでした。彼らは、耳を傾けることさえしないのです。そのような人を信仰に導くことは不可能です。神の言葉を受け入れるのでなければ、人は救われないのです。

 イエス様は、死を避けようとしてユダヤを巡ろうとされなかったわけではありません。死の時は、人の業に左右されません。人のように、死ぬかもしれないと恐れる必要はないのです。また、死を避けようとしていたのであれば、祭りのときに、ユダヤに上ることはしないのです。

7:2 時に、仮庵の祭りというユダヤ人の祭りが近づいていた。

 仮庵の祭りが近づいていました。ユダヤ人の祭りと説明されていて、異邦人の読者を意識したものになっています。

7:3 そこで、イエスの兄弟たちがイエスに言った。「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。

7:4 自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」

 兄弟たちは、イエス様が公の場に出たいと願っていると考えていました。イエス様の奇跡の業、また、教えの能力などは、普通の人にはないものです。兄弟たちの思いとしては、このような優れたものを持っているのであれば、自分を世に示したいという人間的な願いがあったのです。これは、イエス様の思いではなく、兄弟たちの欲求であったのです。彼らの中にそのような思いがあるので、イエス様も同じような思いを持っていると決めつけ、ユダヤにいって自分を現すように言ったのです。

7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

 兄弟たちがそのようなことを言ったのは、イエス様を自分と同じ人間と考えていたからです。イエス様が証しされたように、神から遣わされて神の業をしていることを信じたのであれば、このようなことを言わなかったのです。彼らは、信じていなかったのです。

7:6 そこで、イエスは彼らに言われた。「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意ができています。

 イエス様の時は、まだ来ていませんでした。イエス様は、その時をご存知でした。イエス様は、神から遣わされた方として神の御心を行われるのであり、そのときも神の御心の時があるのです。ここでは、特に死の時です。

・「あなたがたの時はいつでも用意ができています」→何かをしようと思えばいつでもできる。

7:7 世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは憎んでいます。わたしが世について、その行いが悪いことを証ししているからです。

 そのうえで、イエス様がしておられることの故に、イエス様は、世からは憎まれていることを証ししました。兄弟たちは、世にその力を示すことで世から歓迎され、称賛されることを期待していたでしょう。しかし、イエス様は、憎まれていたのです。それは、世について、その行いが悪いことを証ししているからです。世に迎合するような方ではありません。人気取りではないのです。この点からも、イエス様は、神の御心を行う方であることか分かります。

7:8 あなたがたは祭りに上って行きなさい。わたしはこの祭りに上って行きません。わたしの時はまだ満ちていないのです。」

7:9 こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。

7:10 しかし、兄弟たちが祭りに上って行った後で、イエスご自身も、表立ってではなく、いわば内密に上って行かれた。

 このように、公に上らない理由は、兄弟たちが考えるような理由では上らないことを示すためです。イエス様の行動が、人間的な要求によるものではないことを示すために、まさにイエス様がしようとしておられることであっても、その時ではないことを示され、求めるようには行動されないことを示されます。これは、カナの婚礼のときの母の言葉に対しても同じでした。

 時が来るとは、父の御心を行う時という意味で使っています。人の考えに基づく時と区別しているのです。あなた方の考えに基づく時には、行動しないということです。しかし、それがイエス様の時であるならば、それが人の考えるときと同時刻であったとしても、父の御心として行動するのです。

 そして、兄弟たちが上った後に、内密に上りました。内密であったのは、自分を現すためではないことを示すためです。兄弟たちに対する配慮です。少しも躓きを与えないためです。後に、兄弟たちは、信じるのです。良い証しがいつでも保たれている必要があるのです。

ヨハネ

2:4 すると、イエスは母に言われた。「女の方、あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」

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7:11 ユダヤ人たちは祭りの場で、「あの人はどこにいるのか」と言って、イエスを捜していた。

7:12 群衆はイエスについて、小声でいろいろと話をしていた。ある人たちは「良い人だ」と言い、別の人たちは「違う。群衆を惑わしているのだ」と言っていた。

7:13 しかし、ユダヤ人たちを恐れたため、イエスについて公然と語る者はだれもいなかった。

 ユダヤ人たちは、イエス様を捜していました。祭りに来るはずだ思っていました。捜していたことは、イエス様の話を聞く思いがあったのです。

 ユダヤ人の間では、イエス様に対する見方は異なっていました。良い人だとも悪い人だとも言う人がいました。しかし、彼らは、ユダヤ人たちを恐れていました。特に指導者たちを恐れていたのです。皆小声で語っていました。

7:14 祭りもすでに半ばになったころ、イエスは宮に上って教え始められた。

 イエス様は、祭りの半ば頃、教え始められました。彼らがイエス様を正しく知り、信じるためです。それが父の御心でした。

7:15 ユダヤ人たちは驚いて言った。「この人は学んだこともないのに、どうして学問があるのか。」

 イエス様の教えは、ユダヤ人にとって驚きでした。イエス様は、聖書学者から学んだわけではありませんでした。しかし、聖書の関する正しい知識がありました。それは、律法学者がその知識のゆえに尊敬を受けていたように、尊敬に値するものです。人々の驚きは、学者は、努力して学んでその知識を得たのですが、イエス様が学んでいないのに、その知識を持っていることへの驚きです。イエス様の凄さに対する驚きなのです。

7:16 そこで、イエスは彼らに答えられた。「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。

 イエス様は、そのような見方を否定されました。人からの誉れを求めることはありません。そのような人間的な価値観で判断されることを否定しました。律法学者たちは、その知識を誇り、自分を高めていたでしょう。しかし、それは価値の無いことです。

 イエス様は、そのようなことを目を向けるのではなく、教えそのものに目を向けるように話されました。その教えは、イエス様のものではなく、イエス様を遣わされた方すなわち父である神のものです。「遣わされた」ことを強調するのは、自分の思いや考えを語るのではなく、神が語らせようとすることだけを語ることを明確にするためです。神の教えであるので受け入れる必要があるのです。

7:17 だれでも神のみこころを行おうとするなら、その人には、この教えが神から出たものなのか、わたしが自分から語っているのかが分かります。

 イエス様の教えを聞いている人にとって、その教えが神から出たものであるか、自分から語っているものであるかが分かるのです。その人が神の御心を行おうとするのであれば、分かるのです。その人自身が神の教えを求めているからです。

 ユダヤ人にとって、知識を持っていることが価値あることのように考えていましたが、教えそのものが何を教えているのかに心を止めようとはしませんでした。彼らは、人間的な考えを持ち、見方をしていたからです。神の御心を行おうとはしていませんでした。

 今日、神の言葉が公に語られるとき、それを聞く人が神の御心を行おうして聞くならば、その教えが、神からのものか、その人自身のものかが分かるのです。これは、聞く人と語る人の両方に対する教訓を含んでいます。聞く人は、神の御心を行おうとして聞くならば、その教えが神からのものであることが分かるのです。それは、その人の益になります。

 語る人は、神の教えを語る者として語らなければなりません。その動機は、聖いものでなければなりません。また、正しく伝えるのでなければならないのです。聖書が示していることを正しく理解した上で、その御言葉を引用し、伝えるのです。自分の話の構成に合わせて御言葉を引用することは危険を伴います。聖書のなかで、同じ言葉が使われていたとしても、書かれている箇所の文脈によって正しく理解して、引用しなければなりません。文脈を無視して引用することは、誤ったことを伝える可能性があるのです。それでは、聞く人に神の正しい御心を伝えることはできません。

 話の面白さや、驚き、話題の多様性など、話を豊かにする手立てはありますが、大事なのは、正確であることととわかりやすさです。正しい意味が正確に伝わることを考慮しなければなりません。また、分かりやすさは、筋立てだけでなく、正確な文章。声の明瞭度など、工夫すべき点もあります。

7:18 自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で、その人には不正がありません。

 自分から語る人は、自分の栄誉を求めているのです。そのような人は、自分の肉を求めている人ですから、たとい神の言葉を扱っていたとしても、自分の欲の満足を求めています。実は、そのような人は、神の言葉を扱いながら、神の御心を行うことから離れています。

 しかし、自分が遣わされた方の栄誉を求める人は、神様の御心のうちを歩む方です。それが「真実」と表現されている言葉の意味です。そのように、神の御心のうちを歩んでいるので、神に背く不正がないのです。

・「真実」→形容詞。「真理」名詞の形容詞形。神の御心のうちを歩むこと。

・「不正」→神の基準(義)に対する違反。神が承認しない。

7:19 モーセはあなたがたに律法を与えたではありませんか。それなのに、あなたがたはだれも律法を守っていません。あなたがたは、なぜわたしを殺そうとするのですか。」

 そして、ユダヤ人がイエス様の言葉を理解できないことの明らかな証拠を示しました。それは、彼らが既にモーセを通して与えられている律法を守らないからです。律法は、神の御心が示されています。それを守る契約をイスラエルは結んだのです。彼らは、人殺しをしようとしてることで、律法に背いていることを明らかにしています。その人殺しとは、イエス様を殺そうとしいることです。

7:20 群衆は答えた。「あなたは悪霊につかれている。だれがあなたを殺そうとしているのか。」

 群衆は、イエス様の言葉を強く否定しました。誰が殺そうとしていのかと。彼らは、律法を守っていないと指摘されたとき、そのような者ではないと否定したのです。人は、誰しも、自分の誤りついて指摘されるとき、それを否定しがちです。人からあからさまに言われたとすれば、なおさらそうです。

 しかし、自分が神の前に正しい者ではないことを知ることは大切です。正しい行いをしているかどうかよりも、神が備えた救いを受け入れないことが問題です。当時のユダヤ人のように、神の御子が語られた言葉を受け入れないことは、神に対する大きな背きです。

7:21 イエスは彼らに答えられた。「わたしが一つのわざを行い、それで、あなたがたはみな驚いています。

7:22 モーセはあなたがたに割礼を与えました。それはモーセからではなく、父祖たちから始まったことです。そして、あなたがたは安息日にも人に割礼を施しています。

7:23 モーセの律法を破らないようにと、人は安息日にも割礼を受けるのに、わたしが安息日に人の全身を健やかにしたということで、あなたがたはわたしに腹を立てるのですか。

7:24 うわべで人をさばかないで、正しいさばきを行いなさい。」

 ユダヤ人たちは、イエス様が安息日に人を癒したことに対して腹を立てていました。しかし、彼らは、モーセの律法を守るために、生まれた子に八日目に割礼を施していますが、それが安息日に当たったとしても、割礼を施しています。それは、神との契約を守ることの表明であるのです。

 それに対して、イエス様が人を癒すことは、隣人に対する愛の行為であるのです。それは、契約を守るというしるしよりも、契約の実行というはるかに価値のあることです。安息日にその良いことをして良いのです。むしろ、すべきなのです。しるしを持っているということよりも、はるかに価値があります。それならば、それを安息日に実行したからといって何ら責められるべき点はないのです。割礼を安息日に施すことが正しいこととされているならば、人を癒すことは、なおさら正しい良いことであるのです。

7:25 さて、エルサレムのある人たちは、こう言い始めた。「この人は、彼らが殺そうとしている人ではないか。

 ある人にとっては、ユダヤ人たちがイエス様を殺そうとしていることは周知の事実です。

7:26 見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。

 ユダヤ人たちは、手出ししませんでした。それで、議員たちは、イエス様がキリストであると本当に認めたのではないかと言いました。

7:27 しかし、私たちはこの人がどこから来たのか知っている。キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだ。」

 しかし、そのことを言うこの人たちは、イエス様がキリストであると本当には信じていませんでした。それは、キリストが来られるときには、どこから来るのかだれも知らないはずだと言っていました。でも、これは、彼らの思い込みでした。イエス様がベツレヘムでお生まれになることは、預言されていましたし、当時の人もそれを知識として知っていました。

7:28 イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません。

 彼らは、イエス様の出自を知っていしまた。住んでいたところも知っていたのです。それで彼らは、イエス様が普通の人間だと思っていたのです。神であるキリストがそのように人から生まれ、大工の子として、さらに悪い町に育つとは思いませんでした。

 しかし、イエス様は、ご自分がそのような者になろうとして来たのではありませんでした。イエス様は、遣わされて来たのです。その遣わした方について、「真実」と表現しました。この真実とは、本物であることを表しています。遣わされた者としてご自分が本物であることの証しは、父にかかっています。その方は、本物なのです。実体のない空虚な見せかけではないという意味です。

 彼らは、実際に存在されるその方を知らないのです。なぜならば、その方の言葉を尊び、その中に生きることをしていないからです。

7:29 わたしはその方を知っています。なぜなら、わたしはその方から出たのであり、その方がわたしを遣わされたからです。」

 イエス様は、その方を知っていました。知識において知っていただけでなく、その方の実在を認め、その方に服従して生きているからです。知るとはそういうことです。

 イエス様は、その方から出たのであり、その方がイエス様を遣わされたのです。

 

7:30 そこで人々はイエスを捕らえようとしたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。

 彼らは、自分たちこそ神を知っており、神に従っていると自負していたのです。しかし、イエス様は、彼らは、その方を知らないと言ったのです。彼らは、イエス様を捕えようとしました。彼らの誇りが大いに傷つけられたからです。彼らは、神を信じて従って生きていると考えていたからです。

 しかし、実際に手を出す者はいませんでした。イエス様の時がまだ来ていなかったからです。

7:31 群衆のうちにはイエスを信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。

 群衆のうちには、イエス様を信じる人たちが多くいました。彼らは、イエス様がしたしるしを見て、信じたのです。

7:32 パリサイ人たちは、群衆がイエスについて、このようなことを小声で話しているのを耳にした。それで祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスを捕らえようとして下役たちを遣わした。

 パリサイ人たちは、イエス様を信じる人たちの言葉を聞いたときに、イエス様を捕えようとしたのです。イエス様がキリストであると人が信じることを激しく否定しました。イエス様を捕えるために下役を遣わしたのです。

 信じようとしない人にとって、イエ様の言葉も、信じた人たちの言葉も全く役に立ちませんでした。

7:33 そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。

7:34 あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません。」

 イエス様は、まもなくご自分が去って行かれること、そして、ご自分を遣わされた方である父の元に帰ることを明かしされました。イエス様は、父の元に帰られるのです。しかし、彼らユダヤ人は、イエス様を捜しますが、見つけることはないと言われました。それは、肉体を持ったイエス様をもはや見ることがないという意味ではないことは明らかです。続く言葉で、イエス様がいるところに来ることはできないと言われたからです。彼らは、父を知らないのです。そして、イエス様を殺そうとしているのです。彼らは、イエス様をメシヤとして信じることはないのです。救われることはありません。

7:35 すると、ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには見つからないとは、あの人はどこへ行くつもりなのか。まさか、ギリシア人の中に離散している人々のところに行って、ギリシア人を教えるつもりではあるまい。

7:36 『あなたがたはわたしを捜しますが、見つけることはありません。わたしがいるところに来ることはできません』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」

 ユダヤ人には、全く理解できませんでした。彼ら自身の救いがかかっているのに、その警告の言葉さえ理解できませんでした。

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

 祭りの終わりの大いなる日は、仮庵の祭りの八日目で、八によって永遠を表しています。仮庵は、御国において、地上の旅路を振り返ることを表しています。それは、地上でなしたことと御国での報いを味わいつつ、御国に入っていることの幸いを味わうものです。そのことは、永遠の祝福として備えられています。

 イエス様の言葉は、そのことを踏まえてのものであるのです。この渇きは、たましいの渇きです。すなわち、神様の御心を行うことにおいて、渇いている人のことです。ただし、ここでは、「誰でも」と呼びかけられていて、全ての人がイエス様の元に来るように呼びかけられています。その人の抱える問題がたましいの渇きからくることとは知らずにいる人でも、イエス様の元に来て飲むように促されてます。

7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

 イエス様の元に来て飲むことは、イエス様を信じることであることが分かります。その人が渇くことがないのは、その人の心の奥底から水が流れ出るからです。次節では、これが聖霊のことであると示されています。イエス様を信じた者が聖霊を受けることで、このことが実現します。

 詳しく見ると、それは、生ける水の流れと示されていてます。

 「生ける」とは、「神の賜物としての命を経験すること」です。イエス様が「人はパンだけで生きるのではない。」と言われた言葉と同じです。これは、単に肉体が生きることではなく、その人が神の御心を行って歩むことです。それが命なのです。また、「わたしは生けるパンです。」と言われた語も同じ語で、命をもたらすことを表しています。聖霊の内住は、その人に渇くことのない命をもたらします。それは、神の御心を行って歩むことでもたらされる命です。イエス様と一つになって歩み、主にとどまり、主は、その人のうちにとどまってくださいます。神の前に生きていて、実を結ぶのです。逆に御心を行わず、神に背き、神から離れているならば、死であり、滅びなのです。実を結ばないのです。

 さらにいうならば、そのような御心を行う歩みは、永遠の命としての報いをもたらします。

 川の流れは、聖霊の働きを表しています。神の御心を行うことができるのは、聖霊が内住されるからです。神の御心を行って命のうちに歩むことができるのは、聖霊の働きによるのです。肉にある人は、御心を行うことはできません。

 その聖霊の働きは、水として例えられている御言葉と共に働くのであり、聖霊が御言葉を行わせることで、命に溢れた歩みをさせるのです。

 スカルの女のように、この世のものを求めたとしても満たされることはないのです。しかし、イエス様が与えようとされた水は、このことです。

 このようなことは、「聖書が言っているように」とあるように、すでに旧約聖書に記されていることです。

 

7:39 イエスは、ご自分を信じる者が受けることになる御霊について、こう言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ下っていなかったのである。

 御霊についてこう言われたと記されています。御霊に関する部分は、川の流れです。命の水の部分は、命をもたらす御言葉の比喩で、直接御霊を例えているわけではありません。命の水があったとしても、御霊が与えられなければ命はないのです。なぜならば、神の御心としての御言葉を実現する力は人にはないからです。その御言葉を行うことができるように御霊は働き、命を与えます。すなわち、神と一つになって歩み、御心を行い、実を結ぶのです。そして、その行いに対して永遠の報いが備えられます。これは、真の命です。

7:40 このことばを聞いて、群衆の中には、「この方は、確かにあの預言者だ」と言う人たちがいた。

 この言葉を聞いて理解する人たちがいました。この言葉は、難解です。しかし、これは、旧約聖書にたびたび比喩として記されていることです。本当に神の御心を行おうと願う人には、それを理解できたのです。

7:41 別の人たちは「この方はキリストだ」と言った。しかし、このように言う人たちもいた。「キリストはガリラヤから出るだろうか。

7:42 キリストはダビデの子孫から、ダビデがいた村、ベツレヘムから出ると、聖書は言っているではないか。」

 中には、この方がキリストであるという者もいました。もっと明確にイエス様の言葉からイエス様を理解したのです。

 その一方で、否定する人がありました。彼らは、誤解に基づいてそのことを語っています。イエス様が聖書の預言どおりに生まれたことを知らなかったのです。これは、物事を詳しく調べず。浅い知識で物事を理解しようとする人に起こりがちです。イエス様がガリラヤで活動しておられたので、ガリラヤ出身だと思ったのです。

7:43 こうして、イエスのことで群衆の間に分裂が生じた。

7:44 彼らの中にはイエスを捕らえたいと思う人たちもいたが、だれもイエスに手をかける者はいなかった。

7:45 さて、祭司長たちとパリサイ人たちは、下役たちが自分たちのところに戻って来たとき、彼らに言った。「なぜあの人を連れて来なかったのか。」

7:46 下役たちは答えた。「これまで、あの人のように話した人はいませんでした。」

 下役たちは、イエス様を捕らえませんでした。人を惑わすようなことを語ってはいませんでした。パリサイ人や律法学者とも違いました。権威ある者として語っておられたのです。群衆の中には、イエス様の言葉を聞いて、「この方は、確かにあの預言者だ。」と言いました。語る言葉がそう思わせたのです。

7:47 そこで、パリサイ人たちは答えた。「おまえたちまで惑わされているのか。

7:48 議員やパリサイ人の中で、だれかイエスを信じた者がいたか。

7:49 それにしても、律法を知らないこの群衆はのろわれている。」

 パリサイ人たちは、その下役に、惑わされていると言いました。彼らは、律法を知っており、正しい考えを持っていると考えました。しかし、彼らの解釈が間違っており、人間の教えに基づいて判断していたのです。

 このように、人は、自分が正しいと思ってしていることを否定されることが非常に嫌いです。また、その考えを正すことをしようとしないのです。明確に誤りを知らされたとしても、考えを変えようとしないのです。自分の誇りが傷つけられることを忌み嫌うのです。

 さらに、彼らが根拠としているのは、議員やパリサイ人たちも、同じ考えであることです。彼らもイエス様を信じようとしませんでした。学問も知識もある人たちが信じないのであれば、信じるに値しないというのがその根拠です。同じ考えの人たちがいることで信じようとしないのです。しかし、これは、根拠になりません。集団で同じ考えに基づいて行動してきた人たちなのです。その彼らが自分たちの考えを変えないのは、当たり前で、他の人たちを参考にして自分の行動を決めているからです。全員の考えが間違っているのです。何が正しいかを求めるのではなく、誰が正しいかを求めているからです。他の人の行動から、自分の行動を決めようとするならば、間違いまでもそのまま受け入れてしまうのです。

 さらに、群衆について呪われていると言いました。彼らが律法を知らないからだという理由づけをしています。イエス様を信じるのは、律法を知らないからだと。イエス様が律法を破っているのに、キリストであるはずがないという彼らの考えに基づいていたからです。このように、自分を正しいとする人は、自分の考えに反することを考えている人は呪われているとさえ考えます。神の呪いを受けるべき人たちであると考えているのです。

 このような考えを人は持つのです。自分が正しいと強く考える人ほどその傾向が強くなります。

7:50 彼らのうちの一人で、イエスのもとに来たことのあるニコデモが彼らに言った。

7:51 「私たちの律法は、まず本人から話を聞き、その人が何をしているのかを知ったうえでなければ、さばくことをしないのではないか。」

 ニコデモは、律法に基づいて行動するならば、まず本人から話を聞いて、事実を確かめなければ裁くことができないことを言いました。確かに、彼らは、その手続きを踏んでいませんでした。

7:52 彼らはニコデモに答えて言った。「あなたもガリラヤの出なのか。よく調べなさい。ガリラヤから預言者は起こらないことが分かるだろう。」

7:53 〔人々はそれぞれ家に帰って行った。

 ニコデモがそのように正当なことを語りましたが。彼らは、聞く耳を持ちませんでした。これは、純粋に律法の手続きの話なのです。ですから、その意見は、正当であり聞くべきことなのです。

 彼らは、ニコデモがガリラヤ出身なのかと問いました。それは、同郷の者だから弁護しようというのかという意味です。

 そのような手続きを踏まなくても、ガリラヤから預言者は起こらないことは明らかであるからあなたの意見は聞かないというのです。

 彼らは、思い込みと、誤った律法の解釈でイエス様から直接話を聞くこともなく、また、一部の人は聞きましたが、彼らの考えに囚われていました。人の考えではなく、神様の言葉を正しく理解し、受け入れることがいかに大切か分かります。